最近気になることがある。
このレンズ(Tamron A20 28-300)お気に入りで必ずどこにでも持って行っていたのだが、
内部のゴミが目立つようになってきた。
LR3で現像補正出来るけれど、ゴミが増えて少し面倒になってきた。
というか、本音はなるべく補正したくない。
ストッパー(台北の)の件もあるし、Tamronにメンテに出すかな?
となると、やはりNikonの28-300が気になる。
ワイド端の違い(Tamron:27mm, Nikon:28mm)は微妙にマイナス点だが、
あみすの身体焦点距離は35mm。全く問題なし。
テレ端の明るさ(Tamron:6.3, Nikon:5.6 )はやはり非常に魅力的だ。
今月末がガマンの落とし所になるかな〜?
身体焦点距離なんて言葉は、たぶん無い。
(焦点距離によって得られる、視野角のことを言っているのだ)
その日一日はこの単焦点1本だけで街を歩き、日を変えてまた違う1本。
という様にスナップを撮り続けていくと、
そのうち、自分が生の目で見ている映像
(見えている・・・ではなく、意識して追っている画という意味)
と単焦点レンズの画との間に違和感を感じたり、
逆にフィット感を覚えたりするようになる。
年齢と共に視野は狭まるらしいが、
今のあみすには35mm。
これが一番違和感がない。
つまり35mmがあみすの"身体焦点距離"ということだ。
晴天なので、露出は基本開放で。
太陽光の影響により、絞ったり絞らなかったり。
シャッター速度を稼ぐとカモメは停止したよう(8869)に撮れるし、
絞り込むとシャッター速度を遅くせざるを得ず、
結果翼先に躍動感のある画(8908)になる。
太陽を意識してアングルに取り込んだり(8854)、意識してはずしたり(8844)。
最初の1枚(8970)はTamronのAFが迷いまくった末の1枚なので、
本当は失敗作品ということになるのか。
しかし、あみすはこういった画も好きだ。
フレアやゴースト大歓迎。
なぜクリアな画がとれる最新のレンズばかりが評価対象になるのかまったくわからん。
古いレンズにはそのレンズ特有の色や相があり、いずれも捨てがたい魅力がある。
書道(書体)に楷書や行書・草書などがあるように、
いろいろな価値観があって、初めて"世界"が構成されるのだ。
(この記事は夕刊あみすから移載した。)
