J・D・サリンジャー が亡くなった。
学生時代に読んだ「ライ麦畑」や「ナインストーリーズ」。
当時は、
なんだこりゃ?
これが米文学の名作っていうんなら、ナット・ヘントフの「ジャズ・カントリー」の方がよっぽど文学作品だし名作だよ!
なんて、本気で思ってた。
英文学部の教授は「ジャズ・カントリー」は卒論のテーマにはそぐわないと一蹴した。
理由は「『普遍性』がないから」だった。
でも、やっぱりその後20年経って読み返してみると、やはりそこに横たわる『普遍性』を感じざるを得ない。
例えば、スティーヴン・キング。
「ホラー」の旗手である。
でも、確かにホラーで有名になったが、スーパーナチュラルと関係ない佳作も数多く発表している。
現にキング原作のホラー映画はほとんど当たらない(キングの文章から受ける恐怖は映像化に向いていないということであろう)のに、スーパーナチュラルなしの原作を映画化したものは「ボディ(スタンド・バイ・ミー原作)」にしても「刑務所のリタ・ヘイワース(ショーシャンクの空に原作)」(両方ともDifferent Seasonsに収められた中編作品)にしても、名作映画ベストテンに必ずランクインされるほどみんなから愛される作品になって、いつまでも鑑賞され続けている。
ここに『普遍性』が読み取れないのなら、英文学の研究なんて止めちまえと本気で思ったものだ。
でも、これも『普遍性』が問題になって切り捨てられたのだ。
ポーは文学で、ナット・ヘントフやキングは文学ではない。
その教授はそう断罪したのだ。
だからあみすは、ポーとタルコフスキーを俎板に載せてその共通点を論じて見せたのだ。
卒論の担当教員と副担当教員による面接の際に言われた一言は今でも心に刺さっている。
「キミはポーを原文で読んだのかね?」
おまえこそ人の論文をちゃんと読んでるのか?(心の声 ^^;)
手先だけでぱらぱらめくって目を通しただけで!(心の声 ^^;)
その瞬間、学問として小説を論じること(文学)への興味が四散したのだった。
もちろん、サリンジャーに罪はない。
でもその後、ライ麦畑が村上春樹により「キャッチャー・イン・ザ・ライ」として再訳されても、書店でその本を手にすることはなかった。
今日あたり、立ち読みでもしてみようか・・・

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